ヘタでも何でも良いじゃないか

テーマにあるように思えるようになったのは意外に最近のことかもしれません。「自分自身に自信が持てるようになったから」と考えています。それでは今まで自分自身に自信が無かったのか。部分的にはそうではないですが、概ね自信はありませんでした。自信と言う字は自らを信じると書きます。自らを疑っているうちはヘタでも何でも良いなどと割り切れませんでした。その先には自分自身を見ている人たちの評価が常にチラついていたからです。何故人の評価を気にするのか。それは認められたいからではないかと思います。なぜ認められたいのか。それは人に評価をされれば嬉しいからです。なぜ嬉しいのか。何で嬉しいんでしょうね。個人的には人に評価をされるともっと頑張りたくなります。もっと評価を求めてしまう時もあります。これは人間の脳の仕組みからではないかと推察しています。喜びを感じると脳はもっと欲しいとさらに要求する。言葉を変えれば依存に当たるのかもしれません。

 

つまり評価を求めるべく周りの目を気にするのはごく自然な振る舞いであり、これを抑制することは人として酷なことだと考えます。それでも難しいのが、人の評価を気にするあまり人(これは本人が「人」というひとくくりの対象を決めている。本当は1人1人違うのですが)の評価を上げるべく振る舞うようになると心が苦しくなってきます。常に「人」に評価してもらう言動を考えるようになる。しばしばそれは自身が望んでいる事で無かったとしても。だからこそヘタでも何でもとは考えられなくなるのかなと。

 

では評価してもらう言動の模範になるのは一体何でしょうか。そんなものがあるのか。それは「世間一般」、「普通」といった少し考えればそんなものなど無いと分かる、あやふやな指標です。普通はこうする、というのもテレビで刷り込まれている言説や、著名人の言葉、業界で造り出されるファッション(流行)だったりします。以前、アパレルに関する業界にちょっとだけ関わっていましたが、アパレル業界では来年、ヘタすると再来年くらいまでの流行の色、形を決めています。それをメディアの力を使って、インフルエンサー(影響力の大きい方)を使って大々的に広めていく。これが「世間一般」、「普通」に仕立て上げられていく。多かれ少なかれそんなもんです。

しかしこの「世間一般」、「普通」の力は絶大です。少しでも触れた日には飲み込まれかねません。いや、ほぼ全ての方が飲み込まれています。そこに触れる限り、言説に振り回され、ありもしないようなことに気持ちが引っ張られ、そしてそれを基に評価を求め、自身を見失っていく。

 

ではどうしたら良いのか。

 

1つは、こうした言説に振り回されていない人たちの輪に入ることです。本当に少数派ですが、このような言葉に惑わされることなくマイペースに人生を生きている人はおり、またそうした方達にはそうした言説に振り回されない方達が集まってきます。なので、こうした輪に入るのは有効です。

 

もう1つは、そうした言説に振り回されない環境に身を置き、自分自身が成功体験を積み重ねていくこと。この成功とは他人が評価した成功でなく、自身で成功と考えたものです。評価軸はあくまで自分。そこからヘタでも何でも良いんだという気持ちが芽生えてきます。ここまで来ればあなたはツワモノです。言いくるめたい人たちにとっては厄介な存在ですが、人として味わい深い、「面白い人」になっていく可能性大と言わせて下さい。

 

前述した言説に振り回されない輪は身の回りに案外あると思います。直感で飛び込んで行ってみて下さい。