自立って何だろう

今回はこのテーマで今の気持ちを述べたいと思います。結論からすると自立とは

「人に自分が出来ないことなど、頼る先を知っていて、かつ頼ることが出来る人」

と考えています。今日は3行でブログが終わりそうです。・・・いやいや、3行ではあんまりなのでもう少し中身を見ていきます。

 

実は上記「」内で書いたことは自分のオリジナルではありません。オリジナルな言葉などこの世に無いのですが(誰かの影響を必ず受け、アレンジしている)、そうだ、これこそが自立なんだよなぁと合点がいったので、いまはこのように考えているんです。世の中で健常者と言われる人たちは、日々どのように生活しているでしょうか。全部自分でやっているよ、という方はまずいないと思います。朝起きて朝ご飯を食べる。じゃあその朝ご飯はどうしてるのか。買いに行く人がほとんどだと思います。その後歯を磨く。じゃあ歯を磨く道具はどうするのか。買いに行く。移動するのに遠いので電車を使う、銀行へ行き貯金する、行政に行き住民票を出すなどなど。多くの人は頼るべき先を知っていて、かつ頼ることが出来ている。だからこそ日常生活が1人で送れているように見えるのです。

 

でも健常者と思っていた人でも急な事故で身体を害したり、人間関係で躓いて日々悩み苦悩し始めたりします。全ての人に多かれ少なかれそういった経験があるでしょう。私もあります。そんな時に頼るべき先は知っていますか。また知っていて頼れますか。これに即答できる方は、きっと近々快復されることと思います。私は20代で思い悩んだとき頼るべき先が分かりませんでした。当然どうしていいか分からず苦しみました。有りもしないことを延々と考え、悪い方向悪い方向へと舵を切ってしまう。そんな自分を嫌いましたし、それでもどうしていいのか分からない。いま眠れば明日が来てしまう。明日はきっと苦しいんだろう、と。

こう考えると1つの結論に行きあたりました。世間で言われている二項対立は意味をなしているのか?と。その二項対立とは

・貧者と富者

・障害と健常

です。まだたくさん対立軸で考えられるものはありますが上記2つで述べさせてください。

 

貧者と富者。イメージとして抱かれるのは貧者はお金もなく孤立しておりかわいそうな存在。頼る先もなく困窮している。一方富者は、お金があり、人間関係もそれなりにあり、華やか、選択肢もあるし困っていないだろう。これが私の勝手な解釈であれば勘違いで終わる話ですが、的外れなイメージでは無いとして話を進めます。

上記のイメージは「自立」の観点から行くと、確かに富者の方が貧者よりも環境は良いように思えますが、実際はどうでしょうか。私が関わっている方は私自身も貧者の領域にいるためか、貧者の方たちと接することが多いです。彼らの少なくない方は、どこかの時点で人間関係を悪化させる出来事を経験しています。例えば金銭トラブル、酒、クスリ。そうしたことにより頼る人が離れていってしまった。孤立し、自暴自棄になり、人間不信にもなる。それでもそこから立ち直った方、人との繋がりが再び出来た方は頼る術を知るようになります。ご飯はここで安く食べれて、調子の悪い時はここに行き、人と喋りたい時にはあそこへ行けば誰かいる。一方、富者でも晩年、頼るべき人が離れ、大きな家で孤立し、お金を介した関係(ビジネスライクな関係)に終始し、心許せる人がいない。そんな大金持ちと関わることもありました。相続のことでは家族が集まるが、お金が絡まないと一切連絡をしてこなくなった、と。お金が悪いわけではないですが、お金を介さなくても繋がる関係、頼る人を繋げたり、頼れる人が出来る機会を得ることが出来るか、が自立に大切なのではないか。そう思うんです。大きなお家ではモノが散乱し、来るのは不動産業者だけ。そんな方に介護保険サービス、民生委員さんや訪問してお話をするボランティアさんを結んだことで、自立への一歩になったかもしれない。そんなケースはありました。

 

次に障害と健常。障害を負うと、カミングアウトが出来ず、また苦しさを表出していた友人が目の前を去り、より苦しみが増え、さらに周りから人が去っていく。そのようなスパイラルに陥ると頼る人が分からなくなり、どうしていいか分からなく、日々苦悩が続きます。このような時にも去ることなく、話が出来る方(勿論説教がましく言う人でなく対等な関係で有り続けられる人)がいればどれだけ幸運だろうか。初めて苦しんだ時に周りにいなかった自身にはそう思えます。話が出来る方が「家族」と言える方は実は少ないのではないでしょうか。「配偶者」と答える方はいるかもしれませんが、血のつながった家族が話が出来る方であったというのは、私の経験では実は少数です。

混乱期を何とか乗り切り、自分自身で今の立ち位置を認識し、今後どうしていくかを考え、判断し、実践する。そのプロセスで、いまの自分の生活に必要だが出来ないことに、どうしたらアクセスできるのか。そこを自身で考えられるようになれば9割がた自立をしたと言えるのでは無いでしょうか。たくさんの「自立した」障害者と言われる方達が周りにはいて、生活をされています。

一方、健常者と言われる方達が自立できているのか。残念ですがそうは思えない方も多い印象です。長時間労働、目まぐるしく変わる職場環境へ順応しようとするストレスの高い生活を続けることで心身は確実に蝕まれています。ですが、健常者である方たちの多くはその生活を改めようとしませんし、食事、生活、人との関わり、そもそも人生について見つめ直したり、軌道修正をする暇もありません。それについて頼るべき人を知らない。だからこそそのような高負荷な生活を送っていると考えています。

さらに今ではメンタルヘルスの分野で「異常と正常」の考え方が大きく変わってきており、簡単に言うと正常の範囲がどんどん狭くなってきています。高齢者の認知症、知的障害を持つ方、発達障害と診断を受けた子どもなど、従来は老化であり、先天性であり、パーソナリティと認識されてきていた範囲が「異常」になって治療対象になってきています。

 

だからこそ「自立」とは二項対立で考えるべきではない。そんな風に気が付いたのです。心身に障害を負った方々は、それ自体不幸なことだったのかもしれません。でも健常と障害で世の中を見た場合に、どちらが「自立」に近い存在か。世論とは案外違っているのかもしれません。