僕の周りには精神的に辛い、悩んでいるという方が少なくありませんが、彼らの中には自身の症状を語りはじめると次々と病名が出てくることがあります。双極性2型、神経症性○○、ラピッドサイクラー、自閉症スペクトラム、高機能自閉などなど。ふんふんと話を聞いているのですが、時に饒舌に、プチ精神科医のごとく病気を語っている彼らの表情は生き生きとしていることさえあると感じるのは僕だけでしょうか。
ただ少し引っかかる所があります。
僕は「言葉」の難しさを30歳を過ぎて痛感するようになりました。恐らく死ぬまで変わらない1つの結論はこうです。
「コミュニケーションは誤解の産物である」
我々は言葉を使い、日々色々な人とコミュニケーション(意思疎通)をしています。しかしながら自分の言ったことを相手が本当に分かっているのでしょうか。僕は分かっていないと考えます。いつどんな時にも、です。上記でスペクトラムという言葉が出てきましたが、これは「連続体」を表します。つまり点と点でなく、一続きになっている。1つの言葉もまさにこのスペクトラムであるわけです。国の仕事を請け負って障害者福祉事業を行っていましたが、1つの制度が出来ると膨大なQ&A(問答集)が通達で来ます。きっとQ&Aに対するQ&A(国や県に問い合わせたりする)もありますから、皆、言葉を共通理解することなど出来ないのです。
本日のテーマに挙がっている「診断」についてもそうです。
先日、双極性障害だと診断をされた男性と話をしており、
「私は双極性障害です。親族や地域からはキチガイ扱いされています。学歴を生かして家庭教師などを請け負いますが、少し経つと地域から話が出てくるようで、キチガイな方に教えてもらわない方が良いとなります」と。
もう何を話していいか分からなくなるくらい、目を覆わんばかりの例ですが、双極性障害という言葉を親族は、地域はどう解釈しているのでしょうか。それより何より聞いていて辛かったことが、本人自身も診断名を受け止め、「理解」してしまっていることです。
私自身、適応障害と診断を受けたことがあります。メンタルクリニックの医師よりあなたは適応障害であると、仕事を休めるよう診断書書いておくから、と。適応障害が何なのか良く分からないが、とにかくホッとしたことを覚えています。職場での人間関係に神経をすり減らし、自分の中で極限状態近くにまでなっていたからです。誰でも良い、職場に行かないことを許してくれるのであれば…と言った具合です。
これがうつ病や統合失調症と診断を受けていたらどうでしたでしょうか。同じくその時はホッとするかもしれません。自分にはそういう「性質」があったんだ。自分が元々おかしかったんだ。もっと言うと、薬を飲めば「良くなる」んだ、と。
時と場所、そして立場にもよりますが、一旦精神病のレッテルを貼られると、この社会は極めて冷たいです。問答無用に冷たい。事の本質を何も理解していなくても冷たいんです。事の本質とは「なぜそのような辛い症状をきたしているのか?何があったのか?」です。
僕と似たような感覚で診断を受けた人がもしかすると少なくないんじゃないでしょうか。とにかく何でも良い、いまの状況を代弁してくれる、少しでもホッとできる何かであれば何でも良い、と。僕はそこまでであれば心療内科や精神科の所へ行くことは否定は出来ません。本来はそんなところに行くこと無く、話をじっくり出来る場所、具体的に自身がラクになれるよう進展していく所に行ってほしいのが本音ですが。
この文章で皆さんにお伝えしたい事は、ホッとできる場所を求めてが精神科、心療内科だったのであれば、そこで受けた診断名は否定してほしいということです。否定をするというのは「自分自身でそれを受け止め、理解しようとしないこと」を意味します。僕はたまたまではあったものの、病名、障害名は聞き流しました。職場に行かなくなれるのであれば何だって良かったからです。自分自身、受け入れ、理解しようとした時点で、本当に病者、障害者としての一歩が始まります。それは会うどの方も言われるくらい辛く苦しい人生の幕開けになります。僕が面談や関わりの中でお伝えするのは、起こった事への反応として抑うつだったり、怒りだったり、否認することは当たり前の事だということです。それはあなたが、それこそ病気や障害にならないように、脳が、身体が一生懸命に踏ん張っている証拠だと。それを安易に病気、障害と呼んでしまうのであれば、生きている人間全てが病者であり、障害者です。時々相手に、この世に生きているひと全員キチガイですし、障害者ですよ、というのは、起きている事を自身が病気であり障害と認めた時には当然そうなる、ということです。
理想は自身が活動しているオルタナティブ協議会(http://alternativejapan.org/)のような、診断を付けるのではなく、起きていることに向き合い、一緒に考え、解決すべく動く場に始めに繋がることです。ただそういった資源は限られています。だからこそ、診断を付けられるような場に行っても上記の気持ちを持つこと。ホッとはして良いけれども、あなたがおかしい訳ではない、そんなものサラッと否定する、流す。これが心身に良い方法です。そして診断を付けられたとしても、オルタナティブ(診断名に囚われず、困ったことを一緒に考え、動いていく場所)なところに繋がること。そうすれば、あなたは、じきに輝ける場所を見つけることが出来ます。僕はそう思っています。