違和感を大切にしよう

僕がソーシャルワーカーとして活動するようになり7年半。違和感を大切にしてきた7年半とも言えます。違和感とは何でしょうか。僕の中で違和感とは、自分の心がザワつく、気持ちの悪さを覚える、引っかかったまま取れない何かがある時、でしょうか。

 

違和感を大切にしてきたというのは、ソーシャルワーカーという役割もあるかもしれませんが、自分か「おかしい」、「何か変だ」をそのままにしないと言い換えることも出来ます。初めて福祉という福祉に関わった時には、「なぜ障害を持った方達が、毎日同じことをしているのだろう。詰まらなくないだろうか」と思ったし、「1人1人は違うんだから、それぞれが個別にやりたい事を実現していく、得意なことを伸ばしていく支援を福祉はすべきなのでは?」と始めてすぐに感じたものです。

病院でケースワーカーをやっている頃には、

言葉は悪いですが、馬鹿の一つ覚えで何でも困ったら高齢者には介護保険。何か違うんじゃないか。この人が望んでもいないのに、ロクに話も聞かずに、対話ではなく説得とはなぜなんだろうか。本人が嫌がる治療をなぜ医師は進めてしまうのか。なぜ薬剤師は医師に薬の助言をもっとしないのだろうか。事務局はベッドコントロールをソーシャルワーカーにさせているが、「患者さま」とさま付けしている割に入院料が安い患者を早くどっかにやれと言うのはなぜか。生活保護を申請したいのにさせない窓口担当は何なのか。糖尿病の教育入院(血糖値のコントロール不良、服薬管理が出来ていいない、食事がめちゃくちゃといった方にインスリンの打ち方を教えたり、薬を調整していくための入院)で入ってきた方に、医者が罵倒しているのはなぜか。なぜ出来ないのか理由を聞いてみないのか。介護保険はどうして必要な人に必要なサービスが出るだけの判定がおりないのか。退院先の無い方には選択肢がどうしてこれほど少ないのか。緩和ケアに来る患者さんはなぜ心身ともにボロボロになるまで戦おうとするのか(外科手術、化学療法、放射線)。緩和ケアで予後が週単位と言われていた方が家に戻り、オムツを外して鼻のチューブを抜き奥さんの手料理をバクバク食べ2年経っても元気だったのは奇跡なのか、など。

 

上記は初めの病院時代に感じた違和感でした。

 

高齢者のデイサービスに勤めても、

都会の老人がテレビで1日を過ごすだけというのはなぜなのか。行きたくないと言っているのに、施設の方針で、強引に連れてきているのは良いことなのか。昼食、おやつ、飲み物と至れり尽くせりだが、お腹いっぱいで食べられない老人が多かったのは食べさせ過ぎなのではないか。それで5分くらいしか食べていないとケアマネに食欲不振と報告するのは正しいのか。家族の意向で来ており、半ば絶望している老人に選択肢は無いのか。まだまだ身体は衰えても社会に役立つような方も少なくなかったが、1割負担で多額の介護費用がかかっているのは社会損失ではないのか。2歩先3歩先の介護は本人のためにならない、家で生活を安定してやっていけるようにやり方を学ぶのが施設の役目ではないか。お風呂にゆっくり入れず、職員の休憩が遅れないように早く回すのは利用者本位からズレているのではないか。毎日同じことをずっとしているのは退屈ではないか。老人だけが居る空間で、老人は息が詰まるのではないか。本人がどうしたいのか意思を聞く場がほとんどないのはどうしてか。当たり前のように職員さんがサービス残業をしているのはなぜか、など。

 

そして現在、メンタルヘルスに関わるようになった当初は、

精神病院はなぜいつまでも入院が出来るのか。彼ら(入院患者)は病気なのか。一生精神障害者でいるのか、治らないのか。なぜ手が震えているのか、口がモグモグしているのか、表情が乏しいのか。薬を飲む前と飲んだ後で表情が一変するのはなぜか。生活保護、障害年金がもらえるのであれば、働く気も無くなるのではないか。精神障害者と呼ばれている方達は、そうなるべくしてなったような辛いことを抱えているのではないか。なぜ多くの方達が不眠を訴え続けるのか。そうならないための薬を飲んでいるにも関わらず。精神障害者とされた方達は強い偏見にさらされているのではないか。なぜ診察室で医者が偉そうなのか、なぜ本人の症状を病気と言い切れるのか。自分と近い役割のPSW(精神保健福祉士)はソーシャルワーカーとして一体毎日何をやっているのか。本人の気持ち、今後について積極的に働きかけることもなく、事務員でもやれるようなことに従事しているように見える。グループホームの建設反対と書かれたマンション住民の横断幕には、人としての思いやりのかけらも見えない、本気でこう思っているのか、など。

 

色々な事を勉強し、色々な方に出会い、日々研鑽を積むようになってから感じることは、

日本のありとあらゆる仕組みが管理モデルである。大勢の患者(利用者)をごく少数の専門職と言われている者が管理している。そこには個別化など微塵もなく、画一的に、トラブルなく時が過ぎていくような仕組みであるとしか思えないのはなぜか。向精神薬を飲んでいるからこそ問題が起きるのではないか。医者はどうして本人だけに責任を着せるのか(診断名をつけ薬物治療が始まる…)。向精神薬を誰よりも知っているのは薬のスペシャリストの薬剤師なのではないか。どうして彼らが医者に物申せないのか。鍵が何重にもかかった病院で、精神的に課題を持つ方が良くなるのだろうか。精神病院は治す気があるのだろうか。大正時代以降、日本の精神医療は治安維持の役割から何ら変わっていないのではないだろうか。障害者手帳や自立支援医療を申請する人は多かれど、返却したりする方がほとんどいない、聞かないのはなぜか。なぜ病名を聞いただけで多くの人は分かったような気になるのか。その人の悩み・辛さはそれぞれ違い、なぜそれを聞く人がいないのか、そこが良くなっていくのに必要なのではないか。医者と患者が君主と奴隷にしか見えない構図はなぜか。患者はなぜ医者を恐れるのか。手帳や年金の診断書を、ヘソを曲げると書いてくれないとなぜ言うのか。そこに信頼関係はないのか。無くてどうして全うな治療がしていけるのだろうか。福祉はどうして医療のおこぼれにあずかるだけの存在か。福祉が医療に物申すことが皆無なのはなぜか。精神科医が福祉に不信感を持っていると聞いたが、であればどうして対話をしようとしないのか。行政は生命の危機に対して優先的に対応すると言うが、向精神薬の多剤大量処方とアルコール依存で双方多量に服用している方を緊急性が高いと判断しないのか。医者はアルコール依存症で何度も病院の門を叩いている患者にありったけの薬を処方しているのはなぜか。医療と福祉はなぜ手を携えないのか、各々、自分たちで何とかなるとでも思っているのか。薬を治ると信じて飲み続けている人が一向に良くならないばかりか泥沼化していく現状を病院、福祉、行政、地域は良いと思っているのか。地域住民は自分たち自身が明日うつになり床に臥せることなど無いと思って精神障害者に非寛容なのか。オルタナティブが欧米に比べ遅々として評価されないのはなぜか。病院が民間が大多数で、イタリアのように精神病院が全廃することがないと言っているが本当にそうなのか。結局は施設など同じ属性で固めてしまう場所があるから相互理解が深まらないのであって、共に生きることのみ、相互理解が進み、互いを許し許される関係になるのではないか。福祉就労の出口がなく何十年も同じ場所に居る人たちはなぜそうなるのか。何か精神的に不安定な時、駆け込む先が病院しかない制度的貧困に陥っているのはなぜか。明日は我が身とどうして思えないのか。健常・障害の差は何なのか。双極性障害と診断を受けた方は調子の波が平らになればそれで良いのか。それは一種の才能なのではないか、など。

 

 

違和感を大切にしてきたがために大変なこともありますが、この「なぜ?」から進み、何かを得ることが多いです。上記のなぜ?は今となっては答えられそうなことも少なからずあります。このなぜ?には、社会の多数派が進めていることに逆行した考えが多いことが分かります。世の中、疑問に思いもしない方が多いのではないかな、いや、疑問に思っていても知らないふりをする方が多いと感じます。でもこの知らないふりをすることは、いつの間にか自身に多大なストレス、負荷を与えているのではないかと考えます。素朴な疑問を大事にする。

世の中の大多数へのアンチテーゼは本質をついたものも少なくないと思います。僕が活動している市民団体では、現行のメンタルヘルスのオルタナティブを提唱・実践していますが、上記の違和感を違和感のままにするのではなく、違和感への1つの答えを出すべく取り組んでいます。これが大切なのです。人間の数だけ選択肢はあります。違和感を違和感のままで終わらせないことは、自分にとって心地よい選択肢を創り出していくことにも繋がります。きっと日本ではこれがなされてこなかったのでしょう。だからこそ選択肢が少ない。違和感があっても思いとどまる。

万人に評価される制度、考え方など絶対にありません。これは絶対がつけられます。なぜなら自分と他人を比べてそう言えるからです。きっと市民団体の中でも意見は統一されることは無いと思います。それこそ違和感を覚えます。でも違和感を大切にしていく集まりであることから、そこに人が集まっていくことになるであろうとも感じています。

 

皆さん、違和感を大切になさってください。そしてその違和感を言える場を創っていきましょう。より良い未来のために。