最近は、テーマのようなことをよく考えます。「人生割り切れないことばかりだなぁ」と。
30代も半ばに入ってきた自分ですが、年を重ねるごとにハッキリと物事が割り切れないとの思いが強くなります。実際にそうなんだとも思います。物事が6÷2=3のように割り切れることはほとんどない。
ここ数年で人から意見を求められることが増えてきました。そのこと自体はうれしいことではあります。しかしながらハッキリとした意見を言わないことがもっぱらで、結局、YesなのかNoなのか良くわからない。YesでもありNoでもあるというのがよりふさわしい言い方かもしれません。
なぜ言い切ることが出来ないのか。当然、言い切るには根拠が不足していることが挙げられます。ある方から「精神医療は悪ですよね」と言われたことがありましたが、「本当にそうなんでしょうか」としか答えることが出来ませんでした。なぜなら私が精神医療を悪と言い切るだけの根拠がとてつもなく欠けているからです。もちろん、精神医療に酷い目に遭わされているであろう方には多くお会いしてきました。それでも善悪の判断は自分の置かれた時代、場所、立場などの環境に左右されます。私の精神医療に対する無知も、言い切ることが出来ないことを助長していると思います。ただ、とてつもなく勉強をし、善なのか悪なのかを言い切れるくらいになったとしても、それでも言い切ることは出来ないでしょう。どこまでいっても反証材料は事欠きません。
もしそうなのであれば、人生で起こることを割り切ろうとすることそのものが、いたずらに神経をすり減らすことになるのではないかと思うのです。最近出会った中でその印象を強く持ったのは某病院の医師でした。彼らは患者または家族に対して不安を抱かせないように、または威厳を見せるためにか「物事を言い切り」ます。気持ちのいいくらいに。
しかしながら反証材料をもってして問うてみると、それに対し更に言い切ります。患者に起きていることは割り切れることばかりである、とも言わんくらいに。自分の中では、これだけハッキリと言い切ってもらえれば清涼感のようなスッキリした気持ちになっても良いはずですが、モヤモヤだけが募っていきました。恐らく、私が、自分または他人の人生で起こることのほとんどは言い切れるようなものではない、と考えているがためにこういう反応になったのだと言えます。
ではこの医師がどのように患者に対していればモヤモヤにならなかったのか。
それは「今から起きるであろうこと」に対して医師なりの意見を附けた上で、正直なところ分からないと言っていればモヤモヤはなかったと考えています。この会話の中で医師が患者に語ることが出来るのは、「起こりうることは何か」と「その期待値」程度ではないでしょうか。専門家として先を見通すことが出来るので、何が起こりうるかは予想できます。また蓋然性が高いのか低いのかを経験等から意見することが可能です。
私が意見を求められたときに相手に伝えることも実は上記の2つに集約されます。でも実のところそれ以外が起こる可能性もありますし、むしろそれ以外が起こることが一番可能性的に高いのかもしれません。
以上述べてきたことを踏まえて皆さんに言いたいことは以下
・人の話を鵜呑みにするな
・割り切れないからこそ前に進んでみることも大事
です。
「人の話を鵜呑みにするな」とは良く聞く言葉ですが、要は人の話を聞いたところで、その人が言っていることは100%正しくない。むしろ話半分に聞くくらいがちょうどいいということです。
「割り切れないからこそ前に進んでみることも大事」とは、割り切れないことばかりな世の中ですが、だからこそ前に進むことで、何かが起こります。それは期待していたことかもしれませんし、まったく予期せぬことだったかもしれません。それはそれとして、どうか楽しんで割り切れない世の中を生きていってほしいなぁというのが2番目の言いたかったことです。
何かまとまりのない話で申し訳なかったですが、どうも人生で起こることに割り切れるはずと前のめりになっている方が少なくない現代なものですから、横やりを入れたくなったもので・・・
気張らずに、「てきとうに」人生を送っていこうじゃありませんか。