みんな不安を抱えて生きている~抱えながら生きる~

新年度に入ってからも色々な方とお話する機会がありました。その中で強く感じたことが今日のタイトルです。順風満帆に生きているように見える方でも、むしろそういった方こそ、誰にも言えないような深い心の闇、と言えばいいでしょうか、何かそういうものを抱えているのかもしれない。そしてこの考えは正しいのではないかと思うんです。

 

僕も不安を抱えています。漠然とした不安もありますし、直近では親とトラブルがありました。お互いに何かのきっかけがないことにはもう会わないかも知れません。きっかけは僕が老後の面倒は見ない、と宣言した事でした。その後、血相を変え、お前に投じた恩を忘れたか、薄情な奴だ、育て方の何を間違えたのか、まだまだ言われたことは数多くありますが、主に母親から罵倒されました。僕が老後の面倒はみないと宣言したにも理由があります。

いま行っているメンタルヘルス(精神保健)に関する仕事、彼らと共に何かを創り出したり、協働していくこと、ソーシャルアクションとして仲間と現在の仕組みとはもう1つの形を創ること。これにはエネルギーが必要です。そして家族との時間(主に妻)。それ以上に時間を割くことはもう出来ません。自分自身が燃え尽きてしまうと実感しています。両親はいまのところ元気です。自分に期待をし(それは仕事でも将来でも)、投資をしてくれた恩はあります。感謝もその面ではしています。しかし、この育ててくれた恩は、僕のライフワークとなるであろう、いまの仕事でつまづいたり、くじけそうになっている方に還していきたい(これを恩返しではなく「恩送り」と言います)。親に関しても、健康である今のうちに、僕の人生を生きる訳でなく自分の人生を生きてほしいと切に願っての事でした。

言葉足らずだったかもしれませんが、この気持ちが届くことはなかったということです。

 

僕が経験した親子との関係で悩む方は数多くいると思います。他人であれば冷静に考えられることでも親子となるとカッとなったり冷静でいられなくなります。だからこそ第三者の介在する必要があると思うんです。

でも自分自身の考えは変えるつもりはありません。人の期待した人生を歩むくらいなら、自分の期待した人生を歩みたい。どんなに批判をされてもそれは今の時点では変えません。

 

いま、僕の知り合いにも精神的に非常に不安定な方がいます。彼としては親子関係から少し離れて、自分で生活する選択肢を選びたいと言っていますが、それから1年が経過しました。今も悶々としながら実家で生活しています。

 

 

では彼に何が必要なのか。それは僕の仮説ですが、彼には後ろ盾になるもの、仲間が必要だと思うのです。

後ろ盾とは、後ろに居て心の支えになるようなヒト、モノです。ヒト≒仲間とも言えます。人は何かをしたり進めたりする時には、共感、共有する仲間が必要です。人は1人で悦びを抱えるにも限りがあります。1人で悦に入ることはありますが、それ以上の悦びは仲間と分かつことにより、より喜びたい欲求が出てきます。

人生のライフステージにおいて、始めに悦びを分かつ相手は母親かもしれません。周りが悦んでいることで、さらにそれを行おうとします。そして学童期に入れば学校の仲間でしょう。部活動もそうです。週末や放課後の遊びもそう。そして社会に出てからは職場の人だったり配偶者だったりします。会社を引退してから、急激に老け込む方には職場関係に重きを置き過ぎていた方が少なくない印象です。職場を退職すれば、悦びを分かつ身近な存在は妻になるかと思いますが、妻が同性仲間と関係を育んできたのであれば、急激な妻へのシフトは「ぬれ落ち葉」と言われても仕方ないでしょう。だからこそ現役の時から配偶者とは悦びを分かつことが必要なんだと思います。

世代を跨いで仲間がいる方はいつもイキイキとしています。現に充実しているんでしょう。

 

しかしながら、そうした方達が不安を抱えていないかと言えば、そうではない、と言えます。みな人知れず悩み、不安を抱え、時に眠れぬ夜を過ぎすことだってあるはずです。それでも何とか生きていけるのは上記にある支えになるヒト・モノがあるからではないでしょうか。

 

不安を抱くことはごく自然なことです。病気でもなんでもありません。ただ、その不安を自分で抱え込み続けることや、悦びを分かち合うことが誰にも出来ないのであれば、心も擦り切れていくかもしれません。仲間を見つけ、やりたいことが出来、生活に張りが出てくるように、くじけそうな人たちをサポートしていこうと思っています。