以前、C.W.ニコルさんと養老孟司さんの対談本を読みました。タイトルは身体を忘れた日本人、だったと思います。その本を読んでいた時に、身体の使い方を日本人は忘れてしまっている。これは非常に危ない、というような話だったと思います。
現代の人々は頭を使う場面が多い。いや、昔の人も頭を使っていたと思いますが、現代人が身体を使うことを減らした結果、昔の方よりも頭を使っているように感じてしまうのかもしれません。
それが故に精神的な危機になる方が増えているのではないでしょうか。
現代において、頭を使うことを否定的に見てしまう材料として「受け身な情報が多すぎる」ことが挙げられます。こうしてブログを書いている自身が言うのは滑稽ですが、インターネットはその急先鋒です。インターネットを使うと、皆さん意識するしないは関わらず、取得情報は出しての意図的な操作によるものが少なくありません。例えば想定検索機能、それを活用した広告、おススメ情報提供など。過去のユーザーの癖を把握し、こう検索したらこういうものを欲するという欲望を焚き付ける術を熟知しております。大抵はおススメ広告に対してイラッとすることが多いですが、おぉ、良いねぇと反応してしまうこともあります。
このような受け身な情報、あちらから意図的に操作している情報を受け続けることはTVを観ていることと同じ影響を受けます。情報を自分から取得すべく考え、判断し、動く。この思考をせずして情報を手に入れることは洗脳を受けやすい状態に陥るとも考えます。日頃、本当の意味で「頭」を使っている方は、常に情報に対し考え、判断し、行動することを厭いません。こうした方は入ってくる情報に多くの場合、懐疑的です。懐疑的とは何にでもイチャモンを付けることではありません。
現代人は受け身の情報が絶えず入り込む環境にあり、精神衛生的には良くないと言えるでしょう。
一方、身体を使うことが減った。これについて考察してみます。先ほど本当の意味で「頭」を使っている方が、情報に対し考え、判断し、行動することを厭わないと述べましたが、身体をよく使う方の特徴として「頭よりも身体が先行している」ことが挙げられます。身体を動かし情報を得る。確たる根拠は無かったとしても、何となく、身体を動かすことで何か起きるという根拠のない期待に基づくことも少なくありません。一見、無鉄砲のように思えますが、結構根拠のない行動に根拠があったりすることもあります。矛盾した表現ですが、今までの経験、勘、雰囲気などを鑑みて選んだ選択肢は良い結果を招くことも多いのが僕の印象です。身体をとにかく動かしてみよう。これは何でもいいと思います。例えば、庭の草をとりあえず抜いてみるとか、自転車で自分の住んでいる地域周辺を走ってみるとか、電車で降りたい駅の1つ手前で降りるとか。
自身の経験で身体を使った例が、自転車で東京から札幌まで考えもなしに行ってみる、電車で行かずに船で行く、少しでも面白いと思ったらYesと言う等。
頭を先行して使ったら上記の選択肢は選ばないと思います。これはもっと日常の選択でも言えるのではないでしょうか?
こうなったらどうしようか(頭)→やっぱりやめよう(頭)→行動なし(身体)
そうではなく
とりあえず動こう(身体)→〇〇だったな(頭)
となれば身体を使おうと考えます。人間は思考する動物としてこの世に生を受けましたが、考える故の苦悩に悩み、現代ではそれに拍車がかかっているように見えます。
僕は人生で挫折して逃げる場合も、たまたま上手くいっている(と思っている)時にも身体を使うことが多いかなと感じます。挫折して逃げる場合には後先あまり考えずに逃げる。ドラクエで強敵相手に逃げるボタン連打です(連打しても意味ないんですが)。
最近は周りに身体を良く使う方が増えてきました。僕は好感を持てます。身体をとにかく使ってみて、その後良かったか悪かった総括すれば良い。頭を使っても身体がなければ、総括は根拠のない総括です。
この身体を使わない総括を全否定することはしません。身体を使わない総括から素晴らしい小説が生まれることもあります。それでも小説は小説。各々の人生は小説ではないのです。1つ1つの人生は身体を使った積み重ねであるとも考えております。