人を悉く「消費」する。否、人へもっと「投資」する社会へ

これは私が見聞する小さな社会での話が中心である。故に一般論とはとても言えないかも知れない。それでもどうしても言っておきたい。そんな衝動に駆られ文章を打っている。

 

 

テーマであるが、これは私が主体的に生きるようになった30歳を越えてからの信条であり、日々の実践における羅針盤ともなっている言葉である。

世の中を見回すと、非常に疲れている人々が多い。心地よい疲れであるのか、はたまた心身を日々の生活ですり減らした神経衰弱様なのか、それははっきりとは分からないが、どちらかというと後者が多いのではと考える。私の拠点の1つに名古屋があるが、名古屋駅の月曜日の通勤ラッシュで見せる人々の欝々とした表情で下を向き加減に早歩きで会社へ急ぐ姿は、何とも言えない光景である。

 

私が今回のブログで言いたいことはテーマを読んでいただければ事足りる。人を悉く(ことごとく)「消費」することではなく、人へもっと「投資」する社会が今、そして今後も求められているのだと強く思うのである。

では人を「消費」するとはどういうことだろうか。それには少し細くも必要かもしれない。経済学の知識を多少必要とする説明だが、努力して説明しようと思う。

 

私たちは普段の生活でお金を使い、モノ・サービスを購入する。これは実は人を消費していることに他ならない。例えば喫茶店で400円のコーヒーを注文する。喫茶店は150円で仕入れたコーヒー豆に200円の人件費と50円の儲けを上乗せ400円で提供する(その他数えきれない費用が掛かっているが省略)。コーヒー豆を輸入した会社では人件費をコーヒー1杯あたり50円、50円は諸費用、50円は儲けとして150円で喫茶店に売っているとする。するとこのコーヒー1杯を飲むために直接目に見える人件費で250円の人件費がかかる。日本で時給1000円、外国で時給100円だとすると、日本の人件費200円は5分の1時間、つまり12分、外国の人件費50円は2分の1時間、つまり30分。なので計42分の労働をしたものをコーヒー1杯飲むために使ったことになる。人を「消費」したのである。

いま喫茶店でブログを打っているがざっと30人はコーヒーを飲んでいる人がいるだろうか。全員がコーヒーをこの瞬間に飲んでいれば、42分×30人=21時間。なんとこの空間でこの瞬間に21時間もの人を「消費」していることになる。おおよそ丸1日ぶんだ。こうして私たちは人が汗を流して働いた時間を消費しているのである。

 

翻って人へ「投資」するとはどういうことであろうか。

人へ投資するというのは、先々を見越してリターンを得るための投資とは意味合いが違う。投資した上で返ってくるリターンは「自分でないであろう」ことが特徴といえる。株式の投資は1万円が1万5千円、2万円に上がるのを期待して投資する。これは今回の投資ではない。人が困っている時に相談にのりその時に一生懸命自分が出来る限り相談にのる。その後軌道に載ったとしても相談にのった方にリターンが返ってくるとは限らない。これが今回の投資の意味だ。

 

 

世の中見回すと「投資」が少ないなと考えてしまう。皆、お金を集めるのに必死だ。なぜお金を集めるのに必死なのであろうか。

ここで以前紹介した私の3つの経済の考え方を述べる。私たちが行う経済活動は何もお金を介す経済活動だけではない。主に3つに分けられる。

①資本主義経済

②自給経済(おすそわけ経済)

③諦める経済

の3つである。

①は安倍晋三さんが執拗に大きくしようとしている経済活動である。日本では「円」を介して我々は日々モノ・サービスを売り買いしている。

②はお金がない場合にも自分でモノ・サービスを創り出せれば、またはお隣さんなどからお裾分けを頂ければ事足りる。自給経済である。

③はお金も自分で創る能力もない場合に諦めるしかない。これも実は立派な経済活動である。

 

私は決してどれかに特化した社会を創りたいなどと考えていない。そんな世の中は嫌である。

①に特化していれば世の中お金を持つ者が偉い、多ければ多いほど精神的に安心できる、お金がないものはクズだ。そんなところだろうか。

②に特化していれば、お金は悪である。地域でお金を介さないやり取りを目指す。未開の地で財の交換を利益を考えて行わない社会。桃源郷?

③に特化していれば諦めるばかりで悲観的な空気が漂い、まるで死んだような地域社会?

 

どれも嫌である。

ただ、現代の日本をみるとどこか①に限りなく近づいているのではないだろうかと考えてしまう。全国どこを歩いても人々はお金に一定程度(もしくは過度)の信用を置いている。名古屋の高齢者と話をすると、老後お金がないことを嘆き、不安に思い、それでもすることは家でテレビをみることだけ…といった場合も少なくない。障害者と言われる方達も寝ててもお金が入ってくる仕組みないかな、とか月に50万は欲しいなどと言う方もいたり、サラリーマンも老後を考えて3000万円の貯金を出来るように今から貯めている、50歳を過ぎ独身なので老人ホームに入れる資金を作っている最中などと話をされていたのを思い出した。

不安の元は何だろうか。①に特化した時のように、世の中のすべてのモノ・サービスがお金を介して提供されるようになれば当然上記の意見は当然だと思う。昨日も朝受けた電話にシェアハウスの近所のおばちゃんからだった。用水路に私のシェアハウスに生えているミカンが落ちており、それが腐って凄い臭いになるといけないので、取り除いてほしい。週明けに行政にいって用水路を掃除してもらうように話をするが、山内さんもお願いね、と。根底には私は市へ税金を払っている。用水路は市の管理であるので、市がやるのは当然だ、と。なぜ自分で出来る範囲で掃除できないのか?年に2回の集団清掃だけやってそれ以外は市がやれば良いのか?これも①による権利意識の肥大なのであろうか?

こうして現代日本が目指している①に特化していくことは拝金主義を助長する。お金があれば生きていけるとまで飛躍する。逆にお金が無ければ人生終わりだ、死んだ方がマシ。そこまで飛躍する方も少なくない。

先述した用水路の掃除の件で言えば、しわ寄せは行政に向く。行政の職員がもし用水路の掃除に駆り出された場合、人を「消費」したことになる。私は今回のことが2度3度続くようになれば、気付いたその時で掃除する仕組みを作りませんか?と提案するつもりだ。電話口のおばちゃんは自分は名前は名乗らないし、電話があったことも伏せておいてほしいとのことだったが…気付いた時点でちょっと掃除するようになれば、そこで地域の繋がりは少し出来るかもしれない。人に「投資」する機会も出来そうだ。

何でもシェアハウスの住人はおばちゃんからすると「怖い」そうだ。自分の責任もなくはない。

 

 

昨日お会いした名古屋市内で地域の輪を創り出す活動をしている代表は面白いことを言われていた。

「今、ビルを借り上げて動画ライブスタジオを作っているけど、ほとんど改装にはお金をかけていないね。そうすると知恵が働くんだよね。お金よりも人だよ。人が集まれば良いアイデアも出てくるしその過程が面白いのもあるね。ここは色々な人が集まり実験の場として使ってほしいんだ」と。彼は人を悉く「消費」しようとする考えよりも、人へ「投資」する機会を創造しようと試みている。

 

人は「消費」することなしに生きていけない。私が今飲んだコーヒー、上にはランプが照っており、机には水も置いてある。呼び鈴も、スプーンも塩もスティックシュガーもメニュー表も!

誰かを「消費」せずには生きられない。けれども悉く「消費」すれば人はお金の欲望から逃れられず、労働時間は伸び、心身を摩耗する。生きていくことは自分の役割を見つけ、少なからず他人の役に立ち、豊かに生きて死んでいくことなのではないか。「豊かさとは何か」という名著がある。私の先輩にあたる暉峻淑子さんが著した本だが、現代日本の生き方・働き方に30年前には警鐘を鳴らしていた。詳しくは是非読んでほしい。

私が人へ「投資」するのは、資本主義経済で心身を摩耗し、障害者のレッテルを貼られた方をもう1度豊かな生活が送っていけるように話を聞き、快復へ繋げることである。快復した後に彼らが私に何かをしてくれる見返りはない。そんなことはどうでも良い。それよりも快復した後に、誰かに彼らが「投資」することが出来るようになれば結構なことだと思う。恩返しではなく恩送りをする。恩送りとは双方向的な恩の受け渡しではなく、一方的な恩の渡しである。

 

これは私が実際に行い効果的だったことであるが、まずは貴方の消費量落としてみる。お金を使わないようにする。お金を使わなければそれだけ収支のバランスをするために労働時間が減る。そこで出来た時間を「投資」に回す。そうすることで物的充足は下がるかもしれないが精神的充足を満たし、豊かさを感じることが出来るようになるかもしれない。

あなたもぜひ人へ「投資」することを意識してほしい。その喜びに気付けば、それはあなたにやり甲斐・生き甲斐を見出すかもしれない。