農本主義と就労継続支援B型の親和性

まだまだ勉強不足だと痛感する今日この頃であるが、今読み始めた「農本主義のすすめ<宇根豊著>」を読み始め、さらにその思いが強まったと同時に、実はワクワクもしている。

 

今回のテーマは「農本主義と就労継続支援B型の親和性」と言うことだが、結論から先に言うと

 

過疎地域において「農」を基本に置く生き方と障害者がそれを先んじて実現させていくことで豊かさを再考していくことになるということだ。

 

僕がなぜ過疎地域で「農」を主体とした生き方を始めたかを話したい。2015年3月より下呂市の最北西端の山之口区で縁あって本格的に農作業を地元の方に習い始めた。4年前より愛知県清須市にて小さな農園を借りたのが農作業を始める一歩だったが、広い畑を基本を押さえてやり始めたのは2015年3月と言っても良い。

 

まず僕の話をさせてほしい。

 

30歳を迎える20代後半に東京で仕事をしていた時の事。大学院を出てどこにでもいるサラリーマンとして働き始めたが、違和感はすぐに出てきた。このまま早朝満員電車で揺られ、良く分からない仕事をし、毎晩接待か先輩と駅前で飲んで深夜に帰っての繰り返し。異常だと思いつつ、お金をもらっているので仕方がないと出来るだけ考えないようにしていた。周りには(特に親戚には)その違和感を離すと、崇嗣くんは大学院まで行き勉強のし過ぎだった、こんなことならせいぜい大学までにしとけばよかったのに・・・と噂されていることは知っていた。確かに大学院では徹底的に経済に関する文献を読み、海外に行き、国内も全国津々浦々を旅したり、自分のとにかく知りたいことを知ろうと回り巡っていた。が、勉強のし過ぎだったのだろうか?

ただ今思うと、今の生き方に通ずるきっかけは大学院の時に読んだアダム・スミスの「国富論」だったかもしれない。国富論は経済学の始祖アダム・スミスが年月をかけ書いた古典である。そこで初めに出てくるピンの製造の話がある。ピンを作る工程も何工程もあり、はじめはそれを1人の職人が全行程やっていたため1日に例えば20個とかそれくらいしか作ることが出来なかったと。それが職人Aはピンになる鉄線を同じ長さに切るだけ、職人Bはピンを曲げるだけ、職人Cは金具を付けるだけ、職人Dは出来たピンを仕上げる・検品する、4人で作業工程を分担すれば計800個作るとしたら今までの10倍の生産が出来ることになる。それが経済を発展させていくきっかけだと言ってたと思う。

 

これに対して強烈な疑問が湧いた。僕が職人Bだとしたらピンを曲げるだけ1日800個もやらさせるのか?と。つまらないだろうし、苦痛だ。ましてやそのピンが出来上がった喜びを感じることも出来ないし、これで良いのだろうか?と。この考えはリカードという学者の比較優位理論で理論づけられている。頭の中でしか考えたことのない学者であれば上記のことは理論として正当だと主張するだろうが、社会に出、働いたことのある者であれば、大きな会社であればあるほど上のような分業が徹底していると思う。

僕の住んでいる所ではトヨタ自動車がまさに徹底した分業体制を世界規模で築き、理論が正しい(?)ことを裏付けた。

上で述べた疑問は今もはっきり自分の中で現代産業、経済における課題、問題点としてあり続けている。僕は今、精神医療と携わるようになり、心を病んだ方たちから話を聞く機会が少なくない。仕事でつまづいた人の中には、このように仕事の喜びが湧かない分業体制、企業の歯車の1つとして感情を殺し仕事を続ける中で人間関係にも引っかかって心を閉じてしまった方がいる。これはその人が根性が無い、胆力がないのではなく、人間としての正常な反応なんだと考えている。

 

こんなこともあり、僕が農業に目がいったのも当然な成り行きだったのかもしれない。その成り行きを決定づけたのは中島正さんの名著「都市を滅ぼせ」だった。まずは隗より始めよ。1人1人が都市から農村に移り、自給農業をしていくことこそのみが人が人として生きていくことが出来る。このフレーズで農村に拠点を構えることにしたのだ。

僕は本当に勉強不足で毎日新たな発見なのだが、農本主義なる思想が日本でも明治時代より唱えられていた。農本主義とは宇根豊氏の著書「農本主義のすすめ」において「農業を農に戻していくこと」と述べている。野菜を作って売ると言う「農業」から、人間が天地と一体になる「農」へ戻ることである。人間が天地と一体になるとは、人間が自然と共存し、繁栄していく考え方である。

まさに僕が目指している「農」の考え方で、明治に農本主義という言葉で一定の考えとしてまとまっていたことにいたく感心した。

 

明治時代に農本主義が登場した背景はどうだったのだろうか?

 

明治維新が起こり、富国強兵、それを補強する国家画一的な教育システム、日本国の通貨を導入し、近代経済を推進した。それは日本政府、官僚システムによるトップダウンの決定方式をとり、欲望ー貨幣の蒐集により人々のカネへの執着を焚き付け、次々と新しいものが生まれ近代化に成功していった。一方、明治初期には過半が農民であり、生業(ナリワイ)としての「農」がまだ主流であった。ここに明治維新で起きた資本主義経済システムが急激に日本に入り、激変していくことになったのだ。明治初期の農民の考え方は「農本主義」の考え方であったそうだ。それが資本主義の考えが浸透し始めると、「農」が「農業」へと変容していってしまったというのが明治・大正・昭和にかけての農民の思想の変転と言える。

 

僕が農本主義に肯定的になれる訳は、社会に出て、資本主義システムへの疑問を抱えたまま、「農」の道へ入ったことだ良かったのだと思う。これが始めから農家の倅(せがれ)として跡を継いでいたら絶対こんな考えに至っていない。

 

僕がかねてから言っている障害者が自給農業を覚え、地域で半独立(出来る所は独立し、出来ない所は人の手を借りる。これは健常者でも同じだが・・・)をしていけるように考え、地域をデザインしている。障害者は健常者と分類される心身共に五体満足の者たちが創り出した社会で対等に戦っていくことを要求される。資本主義経済下ではカネを稼げない者は劣っていると評価される。障害者の多くは、心身のハンデから、所得稼得能力では太刀打ちできない者が少なくない。そんな彼らが自分の持つ良さを殺してまで雇用をされることがどれほどの意味があるのだろうか?

そのために障害年金はあるのであるし、お金を稼ぐことが不得意な障害者(健常者においても)は生活保護で賄うことであって良い。

 

僕の始めた就労継続支援B型事業(障害者を雇用契約を結ばない形で仕事をしてもらう。それを支援していく)はこんな想いを基に作られている。じっくりと農作業を覚え、季節の野菜を食べ、種まきから収穫、そして次の野菜の種を蒔くための土を耕し、作る。衣・食・住でも一番大切な食をそのように覚え、地域の「農」の後継者として巣立っていく。こんな姿を想像している。彼らは一芸を持ってもいる。例えば料理の腕前がピカイチであったり、絵を描かせれば凄い作品を世に出す。そうした技術を1人で生計を立てていく(つまりは自営業)ことも教えている。そこで満足な収入が無ければ上記で述べた収入源(障害年金や生活保護、親族の補助)を頼れば良い。何が問題なのだろうか?自然をないがしろにし、人心の荒廃を招いた今の経済システムにそこまで迎合する意味は何なのだろうか?

 

農本主義と障害者の就労支援事業は親和性が高い。これは間違いなく言えることなのだ。初心を忘れるべきでないと自戒の込めて言いたい。

 

そして最後に反省したことを紹介したい。山之口区で80代後半のお百姓さんと仲良くさせてもらっているが、彼に野菜を作ってもらった。試験的にということだったのだが、彼から野菜を頂いた際に買い取りたいと言うと露骨に嫌な顔をされ「やめてくれ。金なんか要らんでもってけ」と。僕は何だがうーんという気持ちになったが、今となっては自分自身で反省している。彼は山内崇嗣という者から新しい野菜を作る機会をもらった。自然を生かし、楽しんで日々育てる中でものになった。金よりも育てる過程で喜びを感じさせてもらったのでむしろお礼を言いたい。金は困らん程度にあれば良い、と。カネが絡むと農作業は途端に苦痛に感じる。これは純粋な気持ち。彼もどこかそうなのか。農本主義が山之口ではまだ生きているんだなぁ・・・と。

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コメント: 1
  • #1

    那賀乃とし兵衛 (月曜日, 07 11月 2016 23:25)

    就労支援で農作業、すてきな取り組みですね。実り多い活動になりますようお祈りします。