今後の働き方とは?

最近は本を読む機会に恵まれている(きっと農村での農作業がコメの収穫で一段落したからだろう)が、必然と都市と農村に関する文献に手が行ってしまう。今回のタイトルは「今後の働き方とは?」ということだが、結論から先に言うと、今後の働き方とは


本質的な意味での生きていくための働き方が主流になる


と思っている。2015年10月の統計局データ(http://www.stat.go.jp/data/roudou/sokuhou/tsuki/pdf/201510.pdf)では雇用をされている人口は5704万人。就業人口は6432万人とされているのでその比率は約89%となる。それ以外は自営業と家族従業者で約11%となっている。これが例えば統計局のデータで遡れる最も古い1953年1月の雇用者比率(つまりサラリーマンの就業者に占める割合)は42.4%だった。つまり今とは反対に自営・家族従業者が多かった。ちなみにはじめて自営をサラリーマン人口が上回ったのは1958年4月であった。また内閣府の国民経済計算(90年基準)の国内総生産(GDP)とサラリーマン比率の相関係数を見てみたが、0.903と高い正の相関が見られる。GDPとは経済学でよく出てくる言葉だが、日本国内で作って売った物・サービスの付加価値(利益)を全部足した数字である。資本主義経済の日本ではGDPが増えれば物が活発に取引されていると見なされる(私の3つの経済の概念を知っている方は、これだけでは物やサービスの動きが捕捉されるには不十分だと分かるだろう)。ただサラリーマンとは仕事の対価としてカネをもらえる人たちであり、その原資はその属している組織の経済活動によって捻出されるから、GDPとサラリーマン比率が強い正の相関があると言うことは、日本の経済規模が拡大するにしたがってサラリーマンという働き方が主流になってきたと言える。概念では知っていても統計で改めて見ると戦後の国民サラリーマン化は確かであると言える。


さて、問題は今後である。1998年に実質GDPがマイナスとなってからは日本経済はゼロ近辺の成長にとどまっている。1980年代にはバブル経済を日本は経験したが、言ってみればカネがカネを生む分不相応な経済成長であった。来年1割値上がりすると思えば、人はカネよりも値上がりするモノを買おうとする。つまりカネの価値がモノの価値よりも下がることをインフレーションという。みんながこのように思えば、同じモノでも来年はよりカネを払わないことには買えなくなる。1980年代後半はみんな値段は下がるはずは無いと思いモノをしこたま買い込んだ。

しかしそれは続かなかった。来年どうやらモノの価値は現在を下回るとみんなが思えば、みんながカネに替えようと思い、モノの価値がカネの価値を下回るようになる。これがデフレーションで日本がバブル経済が終わりずっと経験していることだ。みんなが一斉に動いた結果、マンションや土地といった価格が大きいものは流動性が元来低いため、売れずに手元に残ってしまった。その博打に喜んでカネを貸した銀行は返すめどの立たない顧客を大量に抱え込むことになり、本来の銀行の目的である「今、まとまったお金を借りたい人にカネを貸し、今使わない人からカネを預かる」本業が出来なくなった。手元に価値が下がった土地・建物が残った人々はカネを返す当ても無く、ある人は自殺をし、ある人は銀行と言う借金取りに追い立てられた。私がソーシャルワーカーとして相談を受けてきた人には、この時代に大風呂敷を広げ、破産し、生活保護を受給している方が少なくない。

今後GDPが増えていくのははっきり言って難しいだろう。2008年をピークに日本の人口も減りだした。そもそもGDPとは増えれば良いものだろうか?いや「3つの経済」を振り返れば、日本は物質的充足を求めてひたすら資本主義経済にまい進してきた。その他2つの経済である自給経済(おすそ分け経済)と諦める経済をかなぐり捨てて進んできた。その結果、評価の尺度がカネを持つか否かに限定されてしまい、金持ち=偉いという良く分からない等式まで成立するようになった。

安部首相はアベノミクスを推進することによって、日本経済を大きくしていく欲望を持っているようだが、カネを国民に稼がせる結果、特をするのは安部さん並びに働かない人(私がいう働かない人とは人の汗水たらして得た果実を掠め取ろうとする者を指す)が得をする図式だからだ。昨日、Youtubeで元西宮市議の野々村竜太郎議員の記者会見を観て笑ってしまったが、彼のように働きたくないから人の果実で生きていきたいと思う人間が、戦後どんどん増えたのだろう。


ここで疑問が1つ。「働く=苦しいこと・嫌なこと」なんだろうか。私はサラリーマンを6年ほど経験したが、苦痛と感じることもあった。なぜか。自分の思いとは別に人に対してサービスを提供していたからだ。まだソーシャルワーカーという立場上、病院に勤めているときには、病院の経営なんかは気にせずに困っている患者さんにどうにか立ち直るきっかけを得て欲しいがために動いていたため、自分のやりたいようにしていたと思う。それでも急性期病院だったので、治療が終わるや否やすぐに転院となるため、退院までにどこまで患者さんにとって善い状況までいけるか妥協を余儀なくされることもあった。

でも今運営しているシェアハウスは違う。支払いが厳しい人・保証人が立てられない人に対し、話を聞き、場合によっては生活保護などの制度を利用していくなど、ここで生活を立て直し、建て直しから民間のアパートなど他の住まいに移っていくことをお手伝いしている。妥協はしない。


「私は働く=人のためになることをして自分が生活していける果実を得ることと、自分で生きていくためのスキルを身につける」


ことだと考える。カネとはモノ・サービスと同じく財の1つ(カール・マルクス)であり価値は日々変動する。それに人々が見向きもし無くなったら価値はゼロとなるのだ。そんなカネに執着し、カネがカネを生む仕事をしたって面白くもないし、虚しい。現代はこの働く定義と大きく乖離しているように見受けられる。会社組織はカネを生むが、カネを食う。カネを食うためにその分、よりカネを稼ぐ必要があり、売り上げを上げようとする。するとさらにカネを食うためにさらにさらに売り上げを上げる・・・こうして身の丈以上の組織になり、一度傾くと起き上がることが出来なくなる。

コミュニティーデザイナーの山崎亮さんは個人事業主で働いていくことを提案している。今まで述べてきたことを実現できるのであれば個人事業主が最も近い存在なのかもしれない。

常に思っているのは組織とは個々が徹底して自分の力を高めたからこそ集まれば大きな力になるのであって、誰かに食わせてもらうために寄らば大樹でと考えている人が来た時点で、組織は傾き始める。

あなたのは働き方とは?この機会に考えてもおもしろいかもしれない。