スマートハウスと脳無し人間

今日はやたらスマートという言葉を聞く回数が多かった。スマートとは痩せていることを意味するよりは「賢い」を意味しているのだろう。最近はスマート〇〇が流行っているようだ。

スマートフォン、スマート家電、スマートハウス、スマートウォッチ、スマートシティ、スマートグリッド、スマートカー、エトセトラエトセトラ。

中でも私が考えさせられたのはスマートハウスだ。ところでスマートハウスって何だろうか。SUUMO注文住宅の定義を引用する。以下


スマートハウス」とは、「太陽光発電」などがつくる電力や電力会社からの電力、蓄電池に貯めた電力など、家のエネルギーを“賢く(スマート)”使う住宅のことを言います。 賢く使うためにHEMS(ヘムス:ホーム・エネルギー・マネジメント・システム)を利用するのが特徴です。 最後の「ZEH(ネット・ゼロ・エネルギー・ハウス)」とは、1年間の消費エネルギーより住宅でつくったエネルギーのほうが多い、または差がゼロになる住宅のことです。 現在住宅でつくるエネルギーは、太陽光発電が中心です。


だそうだ。太陽光発電を屋根に載せ、蓄電池を利用して、電力会社から得ずとも電気を自給していくこと・・・といえようか。何が賢いんだろうか。

私には人間がバカになるように仕組まれた家にしか見えない。なぜか。このシステムでは人間がスマートになっていく要素はない。機械がスマートに振る舞うに過ぎない。振る舞うだけでスマートになってはいない。私が言うスマートとは何か。人間が考える余地がある時に、人はスマートになる。例えば、今の電力使用量はそもそも適正なのだろうか。自分にとって電気はどれだけ必要なのか。それを考える余地は残念ながらないようだ。建設業者が用意した太陽光発電システムと、電力会社から用意された”見えるか”と称した電力消費確認端末。そして電気をゲーム感覚で見る(考えるではない)住人。

本当のスマートであれば自分の使う電気はどれだけか、その電気はどうやって出来ているのか、電気は自給できないか、太陽光発電は製造過程で汚染物質を出していないか、もし出していたらどのように作る電気がスマートなのか、それは自分で出来るか?、出来るならどうやって出来るか、出来ないなら電気を使うのを諦めるか、こうやって思考することがスマートな暮らしに繋がる。少なくとも私はそう考える。


人は利便・安逸・快楽を求め、ラクをしようとする。ラクをすれば考える機会を逃す。考える機会を逃せばバカになる。バカになれば狡猾な人間の思うがままに動かされる。思うがままに動かされれば、少数のエリートが国を牛耳るようになる。さて、そんな国がなかったか。身近な国。そうだ、日本とは言えないだろうか。