人生で大切なモノとは?

いつからだろうか、タイトルにある人生で大切なモノとは何かと考えるようになったのは。僕は30歳を目の前にして、そのことに考え入るようになった。なぜ30歳を目前にして考えるようになったんだろう。それまでの自分は、どこか上っ面な、知識を蓄えることに充足感を感じている何でもない存在だった。勿論、何でもない存在であることは今も変わらない。

ただ、社会に出て5年が経つ頃になり、お金を稼ぐこと、そしてそのために働くことに対して疑問が湧いてきたのだ。


なぜ我々はこうまでしてお金を稼がなければならないのだろうか。


「馬鹿か。生きていくためだろうが。」と言われそうだが、カネが無ければ生きていけないのだろうか。日本で生きる大多数の人間が、この前提条件を暗黙了解の上で生きている、つまりカネが生きるために必要であること、だ。貨幣が初めて流通したのは紀元後680年前後の富本銭と言われる。その前は貨幣は流通していなかったと考えられ、必要な物は物々交換、または集団の中で皆で生産・消費していたと言われている。1400年程前はこのようにカネに依らず人は生活していたのである。

カネは人の欲望を焚き付ける商品としては最上であろう。安逸・便利・快楽を求め物質充足を叶えるためには、それに対する褒美が必要で、カネで何でも買えるように社会を変え、商品を生んだ見返りとしてカネを消費者が渡すようになった。これを資本至上主義と言うが、権力者(政治家)にとっては都合の良いシステムでもあった。

資本主義が発達してくると、モノを生産する手段(機械など設備や土地、カネ)を持っている者が何も持っていない者(つまり売るモノが自分の身体だけ)を使いよりたくさん商品を作り、より利益を出し、より人を雇い、さらに利益が増える・・・これが可能になり、カネが全てという社会前提が出来れば、資本家は儲かれば権力者に逆らうことはない。資本家に食い扶持を保障されている労働者はいわずもがなだ。こうすれば、権力者は資本家から利益を税金としてかすめ取ることにより遊んで暮らしていくことが出来る。こうして権力者→資本家→労働者の支配構図は固まったのだ。

今でもこの構図は変わることなく、政治家・官僚→資本家・大企業役員→一般労働者と名称が変わったに過ぎない。


ここではっきりと言えることは、この構図に囚われている限り、搾取され続けることから逃げることは出来ない。一般労働者の汗水たらして働いた利益の過半がほとんど何もしていない資本家(株主)、企業役員が掠め取り、さらに一般労働者、資本家、大会社役員の利益を税金として徴収し、甘い汁を吸っている。毎日、新聞で難しそうに記事が書いてあるが、本質的な構図はこれに尽きる。


今日の結論をここで言えば、カネはそれ程重要ではない。これは間違いなく言える。全く笑えない話だが、資本主義が発達し、高度専門化した仕事は分業制になり効率化していくという。その末路が、自分が一体何を作っているか分からなくなり、1つの商品も1からロクに作ることが出来ない。専門性を高めすぎて、その仕事が社会から必要とされなくなった時に潰しが利かない。もっと言えば、専門性の高い仕事だけしていたため、「生きていくための術を全く知らない人間を大量に生んだ」ことである。


百姓をバカにする風潮がある。水呑み百姓、脇百姓、土百姓と百姓を卑下した言葉が多い。しかし百姓は日々の食糧を自給するために畑を耕し、服が無ければ粗末なモノであってもこしらえ、家が雨漏ればその穴を塞ぎ、わらじを作り、その名の通り100の仕事をこなしたという。どこをどうしたらバカにできるだろうか。専門性の高い人間と百姓、どちらが偉いだろうか。いや、どちらが生きていくことをわきまえているだろうか。


一度、皆さんも生きていくことに何が大切なのかを良く考えて欲しいと思う。それでもカネというのであれば、好きにすればいいと思う。言論の自由が保障された国だ。何も言うまい。今後、日本は急激な高齢化、人口減少により、世界から目を向けられなくなる国だ。自分をいつまでも実力以上に見せておくことは出来ない。背伸びをし続ければ、いつかアキレス腱は切れる。アキレス腱が切れ病床に伏せば、その後は再び立ち上がることが出来る保証はない。老いている身であるからだ。再び立ち上がることが出来たとしても老躯を酷使し背伸びをしようとすれば、二度と立ち上がれないどころか、病床で死すことになるやもしれない。日本の置かれた状況を理解し、自分はどうしていけばいいのか、どうして生きたいのか、考える時間を是非作ってほしいと思う。